十字架の入浴

 今日は入院患者の入浴日である。やっと許可の出た老婆はソワソワと落着かない。浴室のドアが開けられた。
 モウモウとした湯気のむこうに三畳敷位の広さの湯船が二つ広がっている。
 ゴム合羽を着け、マスクをした女の人が三人立っている。その中の一人が無言で手を上げた。すべての着衣をむしり取られて、まるで処理寸前の廃鶏のような姿になっている老婆は、ビニールの折りたたみ椅子の真中に連れていかれた。
 肩を押さえられて、よろめきながら椅子に移った。「冷たい」「寒い」と思った瞬間に、何処から飛んで来たのか、湯のシャワーが激しく身体にあたる。「アワワ…」声にならない声を発して胸をかかえる老婆。
 突然に「ぬっと」白い布切れが渡された。ヌルヌルと洗剤の着いた布切れである。そして足や身体を擦れとジェスチャーでしめす。自宅では尊大に振る舞っていた九十三才の老婆、入院したら素直に、順応することを娘達から懇願されていたことを思い出した。「グッ」と息を詰めて無言でうなずき、布を受取った。そして身体を擦り始めた。
 背中に手が廻らないな、と思った瞬間、横から「さっ」と布切れは取上げられた。そして背中を擦ってくる。マスクの人の手である。
 十五日ぶりの入浴!「ありがとうございます」老婆はあわてて何回も頭をさげていた。今一度頭からシャワーが掛けられた。続いてビニールの長椅子に押しつけられるように寝かされた。もちろん無言。
 老婆は先刻の不安な気持はうすらぎ、覚悟を決めた。さあ次は何事が起きるか。むしろ期待に似た気持で待っていた。突然寝かされている長椅子がグイグイと倒れる。「アッ」と思った瞬間、長椅子は一枚の板になった。その上に上向きで寝ているのだ。両手両足を大の字にして、金具でとめられた。
 勿体ない形容になるが、これはまるで「十字架にかけられたキリスト様」を彷彿とさせる姿ではないか。
 そのままの格好でビニールの台はギイギイと、湯船の真中まで動いて行く。「ボチャン」湯気の中に落とされた感覚。沈められて行く。「ア……」口許近くまで湯がせまり止まった。上向きの大の字になった自分の身体を覆うものはなにもない。「俎板の鯉」、諺が脳裏をよぎる。しかし、だんだんに身体が暖かくなり、このままでは湯にのぼせる。あせった。ゆるめに縛られた手を「ピチャピチャ」とはげしく叩いた。
 チラリと眼が合ったくだんのマスクの人がかたわらの金具を「ギイ」と引きあげた。
 「ザアザア、ギイギイ」十字架は老婆を乗せて空中にあがってゆく。そして湯の外に出た。「ストン」と床に着陸。
 「カチカチ」と手足の金具をはずす音がする。十字架は椅子になった。
 横にはタオルが敷かれた車椅子が用意されていた。肩を押されて、真裸でその車椅子に腰をかけた。
 車はドアの外に押し出された。無言…
 外には大きなマスクの人が立っていた。「ハイ一丁あがり」だな。老婆は心の中で叫んでいた。
 「右人工股関節全置術」永い病名の手術をうけた。初めての入院中の入浴経験。「なが生きをしましたら、いろんな事を経験しましてな…」このごろの老婆の相拶に加えられる言葉にはしみじみと真にせまったものが感じられる。


                          (木村 喜美子)

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